大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に首ったけ!
- 2022/05/07
- 02:42
あけましておめでとう、からすっかり時間が経ってしまいました。
季節はもう5月の初旬。
ごきげんいかがでしょうか。さくらいです。
今年は年明けからNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(脚本・三谷幸喜)にすっかり魅せられて、鎌倉殿を中心とした生活を送る日々です。
2012年に放送された「平清盛」以来の平安末期の物語、また鎌倉を中心とした東国武士、とりわけ北条氏を主軸に扱った物語は1979年放送の「草燃える」以来とのこと。
私の大河ドラマのリアルタイム視聴は、1987年以降なので当然「草燃える」については知るよしもないのですが、その物語の面白さは、日本史にも詳しいものまねタレントの松村邦洋さんが各所で語っていたので、おおよそ頭の中には入っていました。
ざっくり言うと、関東(鎌倉)に政権を打ち立てた頼朝と北条氏をはじめとする坂東武者たちが、平家を打倒し、関東(鎌倉)に政権を樹立。そして頼朝亡き後は、その覇権を巡って御家人たちの権力争いが勃発。伊豆の一豪族に過ぎなかった北条氏がそのえげつないまでのやり口でサバイバルを勝ち抜き、鎌倉を中心とする関東統治を、そして武家政権の礎を作り上げる物語です。
今回の「鎌倉殿の13人」もそのえげつなさは全開で、随所に入り込む三谷作品特有のお笑いの要素をもってしても、中和しきれぬ凄惨なシーンのが次々と展開されてゆきます。というか、これを書いている5月7日の時点で、頼朝はまだ平家打倒の只中なのですが、その権力の樹立のため、数々の粛清を断行している最中なのです。
頼朝に従ってきた御家人・上総広常を誅殺。
同族の信濃源氏・木曾義仲を討伐。
木曾義仲の嫡子であり、頼朝の娘婿になろうとしていた・源義高を誅殺。
これまた同族の甲斐源氏、武田信義の嫡子・一条忠頼を誅殺。
…と、ここまででもなかなかハードだったのに、この先は、手柄を立てたはずのあの武将が敵方に回り、漢気溢れるあの武者や、優しく賢いあの武者が!お身内だったあの人が!などと、血みどろの展開が待っているかと思うと、ゾクゾクしないわけにはいきません。
さて、8日放送はいよいよ源平合戦のクライマックス壇ノ浦の戦いが描かれる模様。
また菅田将暉さん演じる源義経のキャラクターがこれまでにないくらいにエキセントリックで面白いんですよね…。
2日間ほど遅れましたが、端午の節句ということで武者姿の九郎義経どの八艘跳びをごらんくださいませ。
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深大寺街道に想いを馳せて
- 2021/03/07
- 07:22
わが家から自転車で西へ少々走ったところに「深大寺街道」の道路案内標識を見つけたのは数年前のこと。(東京都西東京市)
深大寺方面には何度も足を運んだことがあるのでその道筋は当然調布市の深大寺に向かうんだろうとは思っていましたが、青梅街道を越え北へ直進する中世の軍用道路だと知り、その先にあるお城などを見に走ってきました。
深大寺方面には何度も足を運んだことがあるのでその道筋は当然調布市の深大寺に向かうんだろうとは思っていましたが、青梅街道を越え北へ直進する中世の軍用道路だと知り、その先にあるお城などを見に走ってきました。

さて、深大寺道(街道)とはどんな道なのでしょう。
扇谷上杉氏の居城、河越城(埼玉県川越市)から、難波田城(埼玉県富士見市)や滝の城(埼玉県所沢市)を通り対北条軍に備えて築かれた深大寺城(東京都調布市)を結ぶ街道と言われています。
深大寺城が築かれたのは天文6(1537)年のこと。
その年、扇ケ谷上杉家の当主・上杉朝興は50年の生涯を閉じ、家督はわずか13歳の朝定へ引き継がれました。
南関東を支配していた名門扇谷上杉氏はすでにその勢力を後北条氏にとって変わられ、その13年前の大永4(1524)年にはかつての本拠地江戸城を北条氏綱によって奪われています。
当主を新たにした扇谷上杉家はリベンジとばかりに河越城からほぼ直線上に南下。重臣の難波田憲重らを派遣して国分寺崖線地帯に大掛かりな深大寺城を築城。(もともと以前より城郭としての役割を担っていた場所を更に手を加えたようです。)崖線下には野川の湿地帯が広がり天然の要害になっています。
さらに南下すると多摩川を挟んだ先には北条の砦、小沢城(神奈川県川崎市多摩区)。7年前の享禄3(1530)年、この地で上杉家はこのエリアまで侵入し北条軍と衝突し敗退した苦い記憶があります(小沢原の戦い)。折しも北条家にとってはのち3代目当主氏康の初陣でもありました。

相模からの攻撃を備えつつ江戸城を奪還しようとする扇谷上杉氏の目論みは成功するやに思えました。扇谷上杉軍は大きな軍勢を深大寺城に集めていたはずです。対する北条軍は牟礼村(東京都三鷹市)や烏山村(東京都世田谷区)に小規模な砦を築き扇谷上杉軍の動きを牽制しました。深大寺城を巡って両軍の防衛ラインが出来上がったのです。
天文6年(1537)年7月、兵を集めた北条氏綱は意外な行動に出ます。江戸城を出立すると深大寺城を無視し武蔵野台地沿いを攻め上がり一気に河越城を急襲したのです。
突然の事態に河越城は大混乱。深大寺城に在陣していた難波田憲重らが北条軍の進路に気がつき、河越城へ戻るも城は陥落し、扇谷上杉朝定はさらに北の武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)に落ち延びました。
そして北条氏の支配下となった河越城は以後、数度に渡り争奪戦を繰り広げましたが、上杉氏の元へ戻ることはありませんでした。それどころか、最後の河越城の戦いとされる天文16(1546)年の戦い(河越夜戦)においては上杉朝定自身が討死し、扇谷上杉家は滅亡してしまうのです。重臣の難波田憲重もいくさの中で命を落としたと伝えられています。
役割を失った深大寺城は廃城となり、難波田憲重の領地であった難波田城は北条家の家臣が入ることとなりました。関東の国衆たちはこぞって北条氏の配下になとなり、そののち関東を追われた上杉本家(山内上杉氏)の上杉憲政はその後継を越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)に委ね、上杉氏による関東復権を託すことになります。
深大寺道は場所ごとにその名称を変え、所々は不明な箇所はあるものの、その当時の雰囲気をなんとなく残しているような気がします。
道標や庚申塔、地蔵たちに見守られながら自転車を走らせると、まるで時代を大きく遡って馬で戦さ場に赴くような心地になるから不思議です。彼らはいったいどんな想いでこの道を駆け抜けたのでしょうね。
秩父平氏っていったい何?
- 2021/01/11
- 23:01
ふだん、訪れている城址はほとんど東京近郊なので、その地域を治めている在地の領主はいわゆる秩父平氏を祖とした武家が多い。例えば豊島氏や葛西氏、江戸氏に河越氏、千葉氏、そして三浦氏。彼らはみんなご先祖が一緒なのです。
で、秩父平氏っていったいなんなの?ということなんだけど、
桓武天皇の子孫で平高望(たいらのたかもち)の五男、村岡五郎を名乗った平良文(たいらのよしふみ)が関東に拠点を置き、その良文の孫にあたる平将常(たいらのまさつね)が武蔵や上総、下総にて領地を得て秩父氏を称した。
つまり、豊島氏も葛西氏も江戸氏も千葉氏も、秩父氏から枝分かれした平氏の一族にあたるというわけ。
伊豆蛭ヶ小島で挙兵した源頼朝に対して、討伐にあたったのも味方についたもの、そして最初は敵だったが転じて味方についてもの、そして鎌倉政権が誕生すると一族の中で敵味方に別れあるものは栄え、あるものは滅んでゆく…。
きっと同じ一族の中でも葛藤があったことでしょう。
簡単な家系図を起こしてみると、ここでこの一族が誕生したんだ、なるほどよく聞くこの武将はこの系統なのか、とよくわかる気がします。
来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習にもなる気がする!
(↓下の画像をクリックするとほんの少し拡大してみることができます。)

で、秩父平氏っていったいなんなの?ということなんだけど、
桓武天皇の子孫で平高望(たいらのたかもち)の五男、村岡五郎を名乗った平良文(たいらのよしふみ)が関東に拠点を置き、その良文の孫にあたる平将常(たいらのまさつね)が武蔵や上総、下総にて領地を得て秩父氏を称した。
つまり、豊島氏も葛西氏も江戸氏も千葉氏も、秩父氏から枝分かれした平氏の一族にあたるというわけ。
伊豆蛭ヶ小島で挙兵した源頼朝に対して、討伐にあたったのも味方についたもの、そして最初は敵だったが転じて味方についてもの、そして鎌倉政権が誕生すると一族の中で敵味方に別れあるものは栄え、あるものは滅んでゆく…。
きっと同じ一族の中でも葛藤があったことでしょう。
簡単な家系図を起こしてみると、ここでこの一族が誕生したんだ、なるほどよく聞くこの武将はこの系統なのか、とよくわかる気がします。
来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習にもなる気がする!
(↓下の画像をクリックするとほんの少し拡大してみることができます。)

松平容保公について
- 2020/12/06
- 16:20
昨日は松平容保公のご命日。【明治26(1893)年12月5日】
天保6(1835)年、江戸高須藩邸で生まれた容保は12歳で会津松平家の養子になり、
18歳で家督を相続、28歳で京都守護職に就任。その後、幕末の動乱の最前線に立ち続けました。
家康公を祖とする同族とはいえ、容保が生まれた高須松平家は尾張家の支藩的な立場ですし、容保の実父である松平義建(よしたつ)の祖父は水戸藩主・徳川治保(はるもり)です。つまり容保のひいお爺さまは水戸徳川家のお殿様。
しかし、この会津松平家を継承するということは他の誰よりその家の家風を守らねばなりません。
初代会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)公の教えには「いかなることがあっても将軍家をお守りせよ」の家訓があります。
容保は養父・松平容敬(かたたか)よりその教えを叩き込まれました。
容敬(かたたか)もまた出身は水戸徳川家であり、養子の容保とはおじ、おいの関係にあたります。
皮肉なことに京都守護職に就任したことで、京都での治安維持を担うことになり、
それが原因で会津藩は長州を主とする新政府軍からの恨みを一手に引き受けることになります。
鳥羽伏見の戦いの直前、将軍・徳川慶喜は容保らわずかな供回りと大坂城を脱出。江戸城へ逃げ帰り、謹慎。
何よりも徳川主家への忠誠を示してきた容保にとって、
徳川家の、ひいては武家の棟梁にあるまじき慶喜の行為には肩を落としたに違いありません。
会津・桑名藩が朝敵とされる勅命が下ると、容保は江戸にもいられなくなり江戸詰めの藩士とともに会津へ帰還。
そのおよそ半年後、会津は戦火に晒され、多くの犠牲者を出す悲劇に至ったのはご存知の通り。
会津藩降伏後、会津松平家は会津領を没収。
諸藩に預け置かれる身を転々とし、明治5年にようやく蟄居を許されました。
その後、明治13(1880)年、大権現・徳川家康公が祀られる日光東照宮の宮司や、上野東照宮の祠官に就任。
会津藩祖保科正之公が祀られる土津神社の祠官も兼務しています。
その生涯を徳川家のために尽くしていたんですね。
明治26(1893)年12月5日、容保公は東京小石川にて、59歳の生涯を終えました。
容保公が生まれた高須松平家からは他にも名だたる家に養子に入った兄弟がたくさん。
その中でも、
尾張徳川家に養子に入った徳川慶勝、
一橋徳川家に養子に入った徳川茂栄、
会津松平家に入った松平容保、
桑名松平家に養子に入った松平定敬ら四名は「高須四兄弟」と呼ばれています。
彼ら兄弟から見つめた幕末の物語、いつか紡いでいけたらいいなあ、と思います。

天保6(1835)年、江戸高須藩邸で生まれた容保は12歳で会津松平家の養子になり、
18歳で家督を相続、28歳で京都守護職に就任。その後、幕末の動乱の最前線に立ち続けました。
家康公を祖とする同族とはいえ、容保が生まれた高須松平家は尾張家の支藩的な立場ですし、容保の実父である松平義建(よしたつ)の祖父は水戸藩主・徳川治保(はるもり)です。つまり容保のひいお爺さまは水戸徳川家のお殿様。
しかし、この会津松平家を継承するということは他の誰よりその家の家風を守らねばなりません。
初代会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)公の教えには「いかなることがあっても将軍家をお守りせよ」の家訓があります。
容保は養父・松平容敬(かたたか)よりその教えを叩き込まれました。
容敬(かたたか)もまた出身は水戸徳川家であり、養子の容保とはおじ、おいの関係にあたります。
皮肉なことに京都守護職に就任したことで、京都での治安維持を担うことになり、
それが原因で会津藩は長州を主とする新政府軍からの恨みを一手に引き受けることになります。
鳥羽伏見の戦いの直前、将軍・徳川慶喜は容保らわずかな供回りと大坂城を脱出。江戸城へ逃げ帰り、謹慎。
何よりも徳川主家への忠誠を示してきた容保にとって、
徳川家の、ひいては武家の棟梁にあるまじき慶喜の行為には肩を落としたに違いありません。
会津・桑名藩が朝敵とされる勅命が下ると、容保は江戸にもいられなくなり江戸詰めの藩士とともに会津へ帰還。
そのおよそ半年後、会津は戦火に晒され、多くの犠牲者を出す悲劇に至ったのはご存知の通り。
会津藩降伏後、会津松平家は会津領を没収。
諸藩に預け置かれる身を転々とし、明治5年にようやく蟄居を許されました。
その後、明治13(1880)年、大権現・徳川家康公が祀られる日光東照宮の宮司や、上野東照宮の祠官に就任。
会津藩祖保科正之公が祀られる土津神社の祠官も兼務しています。
その生涯を徳川家のために尽くしていたんですね。
明治26(1893)年12月5日、容保公は東京小石川にて、59歳の生涯を終えました。
容保公が生まれた高須松平家からは他にも名だたる家に養子に入った兄弟がたくさん。
その中でも、
尾張徳川家に養子に入った徳川慶勝、
一橋徳川家に養子に入った徳川茂栄、
会津松平家に入った松平容保、
桑名松平家に養子に入った松平定敬ら四名は「高須四兄弟」と呼ばれています。
彼ら兄弟から見つめた幕末の物語、いつか紡いでいけたらいいなあ、と思います。

伊達輝宗の最期。
- 2020/11/29
- 22:44
本日、11月29日【天正13年10月8日】は伊達輝宗と二本松義継のご命日。
思い出すのは大河ドラマ「独眼竜政宗」のいちシーン。
家督を嫡男政宗に譲り隠居した伊達輝宗は、未熟ながら鋭い政宗青年の手腕を暖かく見守ります。
しかし、政宗の対外政策は苛烈を極め、小浜城主・大内定綱を攻めるとその後、定綱の姻戚にあたる二本松城主・二本松(畠山)義継も攻撃。
義継は降伏を申し出るものの、わずかな所領を残しその殆どを没収。
輝宗のとりなしで仕置きはやや緩和されたものの、義継の面目は立ち行かない状態に追い込まれました。
そして事件は起こります。
天正13年(1585年)10月8日、輝宗の元に参じて礼をのべた義継は一瞬の隙をついてなんと輝宗を拉致。
二本松領との境の高田原にて殺害されたとも、後から追いついた政宗一行の銃撃により義継もろとも撃たれて死んだとも言われています。享年42。
大河ドラマの中では、捕らえられた父を目の前にどうすることもできず狼狽る政宗(演:渡辺謙)に対し、
「棟梁はそなたぞ、わしごと射て!」とけしかけ、政宗は涙ながらに義継一行に銃撃を仕掛ける演出でした。
輝宗を拘束していた義継自身も銃弾に倒れ、34年の生涯を終えました。
ドラマの中では輝宗を北大路欣也さん、二本松義継を石田太郎さんが貫禄たっぷりに演じておられましたが、こんなに若い年代設定だったのですね。
こののち、若き当主政宗は佐竹軍&南奥州勢と死闘を繰り広げることになるのですが、
時世はすでに秀吉の世になりつつあり、政宗の勢いは奥州の覇権を握るまでで留まることになります。

思い出すのは大河ドラマ「独眼竜政宗」のいちシーン。
家督を嫡男政宗に譲り隠居した伊達輝宗は、未熟ながら鋭い政宗青年の手腕を暖かく見守ります。
しかし、政宗の対外政策は苛烈を極め、小浜城主・大内定綱を攻めるとその後、定綱の姻戚にあたる二本松城主・二本松(畠山)義継も攻撃。
義継は降伏を申し出るものの、わずかな所領を残しその殆どを没収。
輝宗のとりなしで仕置きはやや緩和されたものの、義継の面目は立ち行かない状態に追い込まれました。
そして事件は起こります。
天正13年(1585年)10月8日、輝宗の元に参じて礼をのべた義継は一瞬の隙をついてなんと輝宗を拉致。
二本松領との境の高田原にて殺害されたとも、後から追いついた政宗一行の銃撃により義継もろとも撃たれて死んだとも言われています。享年42。
大河ドラマの中では、捕らえられた父を目の前にどうすることもできず狼狽る政宗(演:渡辺謙)に対し、
「棟梁はそなたぞ、わしごと射て!」とけしかけ、政宗は涙ながらに義継一行に銃撃を仕掛ける演出でした。
輝宗を拘束していた義継自身も銃弾に倒れ、34年の生涯を終えました。
ドラマの中では輝宗を北大路欣也さん、二本松義継を石田太郎さんが貫禄たっぷりに演じておられましたが、こんなに若い年代設定だったのですね。
こののち、若き当主政宗は佐竹軍&南奥州勢と死闘を繰り広げることになるのですが、
時世はすでに秀吉の世になりつつあり、政宗の勢いは奥州の覇権を握るまでで留まることになります。
