ニッポン武将名鑑 その14「北条高時」
- 2016/05/23
- 22:37
毎日小学生新聞 (2016年5月20日掲載)
「ニッポン武将名鑑」、その14は北条高時です。
元弘3(1333)年5月21日の夜、退き潮の稲村ケ崎から鎌倉市街へ乱入した新田義貞軍は民家に火を放ち北条軍を追いつめてゆきます。
翌22日、北条高時はその一族とともに葛西ヶ谷(かさいがやつ)の東勝寺へ移動し、自刃して果てました。難攻不落を誇った要塞都市“鎌倉”のあっけない最期でした。
大河ドラマ「太平記」においては、この鎌倉炎上シーンが前半のクライマックスで、闘犬や田楽など趣味の世界に生き、どことなく虚ろな高時(片岡鶴太郎)、その高時以上に権勢を奮った長崎円喜(フランキー堺)の緊張感あるお芝居が忘れられません。
いよいよ新田軍が迫ってくるというとき、燃えさかる鎌倉とともに滅亡の道を選んだ高時。
高時のことばに覚悟を決めた側近、長崎円喜の
「大守(高時)が逃げぬと仰せられておるのじゃ。大守の仰せも道理ではある。」
「この鎌倉は我らが築いた北条の都。我らが作った分身ぞ。それを失のうていづくにか我らが立つべきところやある!」
という台詞にぐっとぐっとくるのです。ああ、こんな格好いい台詞、最近の大河ドラマでは聞いたことありません。
北条氏は彼らが粛清していった鎌倉御家人(梶原氏、比企氏、畠山氏、和田氏、三浦氏)たちと同様に、鎌倉の地で150年の幕を閉じました。
そして源実朝で絶えたはずの源氏の血統は、同じ源氏の足利家によって復活。室町時代へとバトンを渡してゆくのです。
鎌倉滅亡の5月22日と掲載日がほぼ近かったせいか鎌倉炎上に対してちょっぴりおセンチになっている私なのですが、
その理由は私(さくらい)のご先祖様が鎌倉武士だったから。ときの執権北条時頼公に取り立ててもらったといういい伝えがあるのですが、きっとそのご恩が遺伝しているせいかもしれません。そのいい伝えについてはまたいずれ!

「ニッポン武将名鑑」、その14は北条高時です。
元弘3(1333)年5月21日の夜、退き潮の稲村ケ崎から鎌倉市街へ乱入した新田義貞軍は民家に火を放ち北条軍を追いつめてゆきます。
翌22日、北条高時はその一族とともに葛西ヶ谷(かさいがやつ)の東勝寺へ移動し、自刃して果てました。難攻不落を誇った要塞都市“鎌倉”のあっけない最期でした。
大河ドラマ「太平記」においては、この鎌倉炎上シーンが前半のクライマックスで、闘犬や田楽など趣味の世界に生き、どことなく虚ろな高時(片岡鶴太郎)、その高時以上に権勢を奮った長崎円喜(フランキー堺)の緊張感あるお芝居が忘れられません。
いよいよ新田軍が迫ってくるというとき、燃えさかる鎌倉とともに滅亡の道を選んだ高時。
高時のことばに覚悟を決めた側近、長崎円喜の
「大守(高時)が逃げぬと仰せられておるのじゃ。大守の仰せも道理ではある。」
「この鎌倉は我らが築いた北条の都。我らが作った分身ぞ。それを失のうていづくにか我らが立つべきところやある!」
という台詞にぐっとぐっとくるのです。ああ、こんな格好いい台詞、最近の大河ドラマでは聞いたことありません。
北条氏は彼らが粛清していった鎌倉御家人(梶原氏、比企氏、畠山氏、和田氏、三浦氏)たちと同様に、鎌倉の地で150年の幕を閉じました。
そして源実朝で絶えたはずの源氏の血統は、同じ源氏の足利家によって復活。室町時代へとバトンを渡してゆくのです。
鎌倉滅亡の5月22日と掲載日がほぼ近かったせいか鎌倉炎上に対してちょっぴりおセンチになっている私なのですが、
その理由は私(さくらい)のご先祖様が鎌倉武士だったから。ときの執権北条時頼公に取り立ててもらったといういい伝えがあるのですが、きっとそのご恩が遺伝しているせいかもしれません。そのいい伝えについてはまたいずれ!
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ニッポン武将名鑑 その13「新田義貞」
- 2016/05/21
- 19:40
毎日小学生新聞 (2016年5月13日掲載)
「ニッポン武将名鑑」その13は新田義貞です。
義貞は足利氏と同族の源氏の直系で、上野国新田荘(群馬県太田市)を本拠とする鎌倉御家人でした。
ちなみに足利氏は渡良瀬川を渡った向こう側、下野国足利荘(栃木県足利市)を領地とするまさにお隣さんどうし。
先祖の源義国(=源義家の4男)同じくする両家でしたが、家格には大きな差があり、領地も官位も低いまま時代を下ってしまった新田氏。そんな新田氏が一躍主役に躍り出たのが鎌倉北条氏攻めでした。
義貞は北条方の六波羅軍として西へ遠征していた足利高氏と示し合わせ新田荘で挙兵。
義貞は破竹の勢いで鎌倉街道を南に南に進軍し、小手指原、久米川から武蔵府中を経て、分倍河原、関戸と各地で北条軍を破り、鎌倉へ至り北条氏を滅亡に追い込みました。
西武線や京王線沿いのローカルな駅名が戦いに絡んでいる辺りがぐっとくるのですが、すべて鎌倉街道でつながっているのですね。
後醍醐天皇による建武の新政が始まると、義貞は高氏とともに官位を得て、所領も増加。
が、貧乏御家人が突然の大出世をとげ、めでたしめでたしとはいきませんでした。
建武政権に早々に見切りをつけた同族の足利尊氏(高氏から改名)は反乱鎮圧を理由に京都を脱出。
鎌倉に戻り独自の政権を打ち立てようとする中、義貞は後醍醐天皇の命により足利討伐軍として出陣することになりました。
ここから両家は幾度も戦いを繰り広げることになります。
一旦は尊氏を破り京都から追い落としましたが九州から再び攻め上る尊氏の前に、後醍醐方の武将たちは連携がとれないままに敗れ、同じ後醍醐方の楠木正成は自害。
新田義貞はまったく戦功を得られないままに逃げ帰りました。
尊氏軍が京都を占領すると後醍醐天皇は京から叡山に脱出。新田義貞も再起を図るべく越前に本拠を構えましたがその後、じりじりと尊氏軍に追いつめられ、越前国藤島の灯明寺畷(とうみょうじなわて)にて戦死しました。
建武政権下においては反尊氏の一大勢力に担ぎ上げられた義貞は、家柄こそ尊氏と双璧をなすものの、政局にうとかった彼は、公家衆にも、各地の武将たちにも信頼を得られず、最終的には後醍醐天皇からも見放され、犬死にのような哀れな最期をとげるに至ったのです。
それでも彼を突き動かしたのは何としてでも足利を見返したい一心だったのかもしれません。
凡将、愚将とさえ言われる新田義貞ですが、足利の呼びかけに応えて鎌倉攻めを行わなかったら、室町政権の成立はなし得なかった訳ですし、その功績だけでも十分なものだと思うのです。
大河ドラマ「太平記」(1991年)では根津甚八さんが何とも物悲しげな義貞を演じておられました。
時流を読み切れなかった義貞の愚直な生涯もまた歴史の1ページです。


写真はJR南武線&京王線の分倍河原駅に設置された義貞像と、分倍河原古戦場の石碑。このイラストを描いたあと、自転車で少し脚を伸ばし府中まで行ってみました。義貞公、相変わらずかっこうよかったです。

「ニッポン武将名鑑」その13は新田義貞です。
義貞は足利氏と同族の源氏の直系で、上野国新田荘(群馬県太田市)を本拠とする鎌倉御家人でした。
ちなみに足利氏は渡良瀬川を渡った向こう側、下野国足利荘(栃木県足利市)を領地とするまさにお隣さんどうし。
先祖の源義国(=源義家の4男)同じくする両家でしたが、家格には大きな差があり、領地も官位も低いまま時代を下ってしまった新田氏。そんな新田氏が一躍主役に躍り出たのが鎌倉北条氏攻めでした。
義貞は北条方の六波羅軍として西へ遠征していた足利高氏と示し合わせ新田荘で挙兵。
義貞は破竹の勢いで鎌倉街道を南に南に進軍し、小手指原、久米川から武蔵府中を経て、分倍河原、関戸と各地で北条軍を破り、鎌倉へ至り北条氏を滅亡に追い込みました。
西武線や京王線沿いのローカルな駅名が戦いに絡んでいる辺りがぐっとくるのですが、すべて鎌倉街道でつながっているのですね。
後醍醐天皇による建武の新政が始まると、義貞は高氏とともに官位を得て、所領も増加。
が、貧乏御家人が突然の大出世をとげ、めでたしめでたしとはいきませんでした。
建武政権に早々に見切りをつけた同族の足利尊氏(高氏から改名)は反乱鎮圧を理由に京都を脱出。
鎌倉に戻り独自の政権を打ち立てようとする中、義貞は後醍醐天皇の命により足利討伐軍として出陣することになりました。
ここから両家は幾度も戦いを繰り広げることになります。
一旦は尊氏を破り京都から追い落としましたが九州から再び攻め上る尊氏の前に、後醍醐方の武将たちは連携がとれないままに敗れ、同じ後醍醐方の楠木正成は自害。
新田義貞はまったく戦功を得られないままに逃げ帰りました。
尊氏軍が京都を占領すると後醍醐天皇は京から叡山に脱出。新田義貞も再起を図るべく越前に本拠を構えましたがその後、じりじりと尊氏軍に追いつめられ、越前国藤島の灯明寺畷(とうみょうじなわて)にて戦死しました。
建武政権下においては反尊氏の一大勢力に担ぎ上げられた義貞は、家柄こそ尊氏と双璧をなすものの、政局にうとかった彼は、公家衆にも、各地の武将たちにも信頼を得られず、最終的には後醍醐天皇からも見放され、犬死にのような哀れな最期をとげるに至ったのです。
それでも彼を突き動かしたのは何としてでも足利を見返したい一心だったのかもしれません。
凡将、愚将とさえ言われる新田義貞ですが、足利の呼びかけに応えて鎌倉攻めを行わなかったら、室町政権の成立はなし得なかった訳ですし、その功績だけでも十分なものだと思うのです。
大河ドラマ「太平記」(1991年)では根津甚八さんが何とも物悲しげな義貞を演じておられました。
時流を読み切れなかった義貞の愚直な生涯もまた歴史の1ページです。


写真はJR南武線&京王線の分倍河原駅に設置された義貞像と、分倍河原古戦場の石碑。このイラストを描いたあと、自転車で少し脚を伸ばし府中まで行ってみました。義貞公、相変わらずかっこうよかったです。
ニッポン武将名鑑 その12「楠木正成」
- 2016/05/21
- 19:38
毎日小学生新聞 (2016年4月22日掲載)
「ニッポン武将名鑑」。その12は楠木正成です。
後醍醐天皇の厚き信任を得て、河内にて挙兵。赤坂城や千早城に立てこもり六波羅軍(北条軍)と戦いました。
いくさ上手の正成の特徴はゲリラ戦術。大軍を撹乱したり城に押し寄せる軍勢に熱湯や石、糞尿を浴びせて籠城戦をしのぎ切りました。
建武の新政後は政府の要職につくものの、九州で再起を図って上京してきた足利尊氏と戦い戦死。最期まで後醍醐天皇に尽くした生涯でした。
NHK大河ドラマ「太平記」(1991年)では武田鉄矢さんが正成を演じておられました。司馬遼太郎氏による「正成は河内の気のいいおっさんだったに違いない」ということばを受けての飄々とした正成像が印象的です。
(ただし、台詞は標準語だったけど。※正成の弟正季を演じた赤井英和さんのみ関西弁でした。)
鎌倉時代も後期になると甲冑がだいぶ機能的に変化してきてのちの戦国期のものに近くなってきています。平安期のものすごく大きかった兜にも変化があったり、描きわけも楽しいです。

「ニッポン武将名鑑」。その12は楠木正成です。
後醍醐天皇の厚き信任を得て、河内にて挙兵。赤坂城や千早城に立てこもり六波羅軍(北条軍)と戦いました。
いくさ上手の正成の特徴はゲリラ戦術。大軍を撹乱したり城に押し寄せる軍勢に熱湯や石、糞尿を浴びせて籠城戦をしのぎ切りました。
建武の新政後は政府の要職につくものの、九州で再起を図って上京してきた足利尊氏と戦い戦死。最期まで後醍醐天皇に尽くした生涯でした。
NHK大河ドラマ「太平記」(1991年)では武田鉄矢さんが正成を演じておられました。司馬遼太郎氏による「正成は河内の気のいいおっさんだったに違いない」ということばを受けての飄々とした正成像が印象的です。
(ただし、台詞は標準語だったけど。※正成の弟正季を演じた赤井英和さんのみ関西弁でした。)
鎌倉時代も後期になると甲冑がだいぶ機能的に変化してきてのちの戦国期のものに近くなってきています。平安期のものすごく大きかった兜にも変化があったり、描きわけも楽しいです。
ニッポン武将名鑑 その11「北条時宗」
- 2016/05/21
- 19:37
毎日小学生新聞 (2016年4月15日掲載)
「ニッポン武将名鑑」、その11は北条時宗。
ご存じ元寇の時の鎌倉幕府執権。2度に渡る元軍との戦いで辛くもピンチを乗り切ったラッキーボーイです。
この時期の鎌倉幕府は得宗先制(とくそうせんせい)と言って北条氏の嫡流(得宗家)に権力が集中し、その実権を得宗及び、その執事が独占していた状態でした。
権力の集中は自然と政治の腐敗につながってゆき、各地で悪党などと呼ばれる独立系の領主を生む原因につながってゆきました。
鎌倉幕府が倒れるのは元寇からおよそ50年後で、時宗の孫・高時の代になるのですがこの時点でかなり幕府は末期的な状態だったのですね。
おりしも熊本では大きな地震があった次の日の掲載になりました。肥後(熊本)の御家人、竹崎五郎季長が活躍した元寇のお話。
まだ余震の心配もありますが、被災された地域の方々には、1日も早く心穏やかな生活が戻ることを祈っております。

「ニッポン武将名鑑」、その11は北条時宗。
ご存じ元寇の時の鎌倉幕府執権。2度に渡る元軍との戦いで辛くもピンチを乗り切ったラッキーボーイです。
この時期の鎌倉幕府は得宗先制(とくそうせんせい)と言って北条氏の嫡流(得宗家)に権力が集中し、その実権を得宗及び、その執事が独占していた状態でした。
権力の集中は自然と政治の腐敗につながってゆき、各地で悪党などと呼ばれる独立系の領主を生む原因につながってゆきました。
鎌倉幕府が倒れるのは元寇からおよそ50年後で、時宗の孫・高時の代になるのですがこの時点でかなり幕府は末期的な状態だったのですね。
おりしも熊本では大きな地震があった次の日の掲載になりました。肥後(熊本)の御家人、竹崎五郎季長が活躍した元寇のお話。
まだ余震の心配もありますが、被災された地域の方々には、1日も早く心穏やかな生活が戻ることを祈っております。
ニッポン武将名鑑 その10「北条政子」
- 2016/05/21
- 19:35
ニッポン武将名鑑 その9「源実朝」
- 2016/05/21
- 19:30
毎日小学生新聞 (2016年3月18日掲載)
「ニッポン武将名鑑」、その9は源実朝です。
実朝暗殺の影には実朝を擁立した北条氏と、実朝の甥・公暁を焚きつけて実朝を葬ることで北条氏を打倒せんとする相模の豪族、三浦氏の思惑が見え隠れするところが最高におもしろい。
事件は「気がついた」北条氏と「気づかれたことに気がついた」三浦氏により、ただの身内の暗殺事件として処理され、両家の関係は微妙な状態を保ったまま次のステージに進みます。
つくづく実朝は殺され損なんだなあ。
このイラスト描きながら、太宰治の「右大臣実朝」を読みました。
聡明でありつつも、自らおだやかに滅びの道に進む実朝像がじつに物悲しい作品でした。
イラストではどこまで表せたかは分かりませんが、色味もあわせてなかなか好きな一枚です。

「ニッポン武将名鑑」、その9は源実朝です。
実朝暗殺の影には実朝を擁立した北条氏と、実朝の甥・公暁を焚きつけて実朝を葬ることで北条氏を打倒せんとする相模の豪族、三浦氏の思惑が見え隠れするところが最高におもしろい。
事件は「気がついた」北条氏と「気づかれたことに気がついた」三浦氏により、ただの身内の暗殺事件として処理され、両家の関係は微妙な状態を保ったまま次のステージに進みます。
つくづく実朝は殺され損なんだなあ。
このイラスト描きながら、太宰治の「右大臣実朝」を読みました。
聡明でありつつも、自らおだやかに滅びの道に進む実朝像がじつに物悲しい作品でした。
イラストではどこまで表せたかは分かりませんが、色味もあわせてなかなか好きな一枚です。
ニッポン武将名鑑 その8「北条時政」
- 2016/05/21
- 02:21
毎日小学生新聞(2016年2月19日掲載)
ニッポン武将名鑑その8は北条時政です。
鎌倉に政権が誕生して以降、北条氏はNo.2の地位を確立するため、同格または格上の同僚たちを策謀を駆使し次々に滅ぼしてゆきました。
北条氏の挑発にのりまんまといくさで散ってゆく御家人たち。
時政は孫の頼家だけでなく自らが擁立した実朝をも殺害しようと画策しました。
さすがにこの計画は失敗に終わり時政は隠居に追い込まれるのですが恐るべき権力欲。
頼朝がつくった武家の世は北条氏の世として長らく続いてゆくことになります。
そういや三谷幸喜脚本の「王様のレストラン」に出てくるキャラクターたちの役名は頼朝に集う鎌倉御家人をモチーフにしているのよね。
梶原(小野武彦)、大庭(白井晃)、稲毛(梶原善)、和田(伊藤俊人)、佐々木(杉本隆吾)、畠山(田口浩正)、しずか(山口智子)、政子(鈴木京香)、範朝(頼朝=西小村雅彦)、禄郎(九郎義経=筒井道隆)、千石さん(松本幸四郎)は弁慶かな。
ばらばらな集団と鎌倉幕府の御家人がなんとなくリンクしておかしいな。

ニッポン武将名鑑その8は北条時政です。
鎌倉に政権が誕生して以降、北条氏はNo.2の地位を確立するため、同格または格上の同僚たちを策謀を駆使し次々に滅ぼしてゆきました。
北条氏の挑発にのりまんまといくさで散ってゆく御家人たち。
時政は孫の頼家だけでなく自らが擁立した実朝をも殺害しようと画策しました。
さすがにこの計画は失敗に終わり時政は隠居に追い込まれるのですが恐るべき権力欲。
頼朝がつくった武家の世は北条氏の世として長らく続いてゆくことになります。
そういや三谷幸喜脚本の「王様のレストラン」に出てくるキャラクターたちの役名は頼朝に集う鎌倉御家人をモチーフにしているのよね。
梶原(小野武彦)、大庭(白井晃)、稲毛(梶原善)、和田(伊藤俊人)、佐々木(杉本隆吾)、畠山(田口浩正)、しずか(山口智子)、政子(鈴木京香)、範朝(頼朝=西小村雅彦)、禄郎(九郎義経=筒井道隆)、千石さん(松本幸四郎)は弁慶かな。
ばらばらな集団と鎌倉幕府の御家人がなんとなくリンクしておかしいな。
ニッポン武将名鑑 その6「源義経」
- 2016/05/21
- 02:16
毎日小学生新聞(2016年1月15日掲載)
ニッポン武将名鑑、その6は九郎判官こと源義経です。
九郎の通り源義朝の九男で、牛若丸の幼名でもお馴染みですね。生涯を通して鮮やかな物語に彩られた義経ですが、後世の創作であることが多くその実像はよくわかっていないのが本当のところだそう。
手塚治虫「火の鳥 乱世編」に出てくる義経はとっても無慈悲で冷酷なキャラクターとして描かれていたのが印象的。
最後まで兄頼朝からの信頼が得られなかったのは、戦場において常に義経を監視していた梶原景時の讒言も影響したでしょうが、やはり義経本人の資質が大きかったんじゃないかと思います。
ただ、大局の中で翻弄されるような生涯を終えた義経については、おやげない(信州ことばで哀れ、かわいそうの意)なあとしみじみ思ったのでした。
大河ドラマでいうと、1993年の「炎立つ」に出てきた野村宏伸演じる義経、2005年に滝沢秀明が主演を演じた「義経」、最近では2012年「平清盛」で、神木隆之介が義経を演じておられました。どの義経像もそれぞれに義経のいいとこ、悪いところ(!)が出ていてよかった気がします。

ニッポン武将名鑑、その6は九郎判官こと源義経です。
九郎の通り源義朝の九男で、牛若丸の幼名でもお馴染みですね。生涯を通して鮮やかな物語に彩られた義経ですが、後世の創作であることが多くその実像はよくわかっていないのが本当のところだそう。
手塚治虫「火の鳥 乱世編」に出てくる義経はとっても無慈悲で冷酷なキャラクターとして描かれていたのが印象的。
最後まで兄頼朝からの信頼が得られなかったのは、戦場において常に義経を監視していた梶原景時の讒言も影響したでしょうが、やはり義経本人の資質が大きかったんじゃないかと思います。
ただ、大局の中で翻弄されるような生涯を終えた義経については、おやげない(信州ことばで哀れ、かわいそうの意)なあとしみじみ思ったのでした。
大河ドラマでいうと、1993年の「炎立つ」に出てきた野村宏伸演じる義経、2005年に滝沢秀明が主演を演じた「義経」、最近では2012年「平清盛」で、神木隆之介が義経を演じておられました。どの義経像もそれぞれに義経のいいとこ、悪いところ(!)が出ていてよかった気がします。