ニッポン武将名鑑 その16「足利義満」
- 2016/06/14
- 02:12
毎日小学生新聞 (2016年6月10日掲載)
「ニッポン武将名鑑」、その16は足利義満です。
ごぞんじ足利将軍家の三代目。
足利義満っていうと必ず教科書に出てくる人だし、「南北朝統一、日明貿易、金閣」と行った業績もはっきりしているのだけど、それ以上のこととなると今まであまりよく知らなかったような気もします。
せいぜい、一休さんに大人げないとんち合戦を挑んだりしているイメージかしら。
ちなみに南北朝統一を果たした際の北朝側の天皇(後小松天皇)の落胤とされるのが一休さんという説が一般的らしいので一休さんと義満公が対面してないとも言えないし、とんち勝負はなかったとも言い切れませんが。
若干11歳で三代目の将軍職を継ぎ、管領の細川頼之の補佐により幕政を強化していった足利義満。一時は権力が強くなりすぎた細川頼之が他の守護たちにより失脚の憂き目にあうものの、逆に力を増してきた美濃の土岐氏、山陰の山名氏らを追い落とし、西国の大内氏の反乱を討伐。各地の勢力バランスが崩れない程度に守護大名の力を削ぎ落とす采配がなんともお見事です。
かくして幕府の権力を強固にした義満はただ一人官位を上昇。将軍職を嫡男義持(よしもち)にゆずったのち、従一位太政大臣にまで上り詰めました。将軍で太政大臣だなんて、頼朝も清盛もなし得なかったこと。
金ぴかの北山山荘にて政治を行い続けました。
ただしあんまりに上り詰めちゃうと、完璧すぎて武将としてはあんまり魅力を感じないのも実際のところです。
少しは失敗したエピソードが残っていると嬉しいのだけど…。
振り返ってみると、あえて将軍や高い官位を望まずNo.2の地位を150年保ち続けた北条氏が愛おしくさえ思えたりします。
しかし、足利義満没後の足利政権は大きく揺らぎはじめます。
4代将軍となった足利義持は父・義満とは不仲だったせいで父の政治をことごとく否定。勘合貿易を取りやめたり北山山荘を取り壊したり、おまけに鎌倉府を任せられた親戚の足利家との不和…。じょじょに室町幕府の屋台骨はゆらいでゆくことになります。

「ニッポン武将名鑑」、その16は足利義満です。
ごぞんじ足利将軍家の三代目。
足利義満っていうと必ず教科書に出てくる人だし、「南北朝統一、日明貿易、金閣」と行った業績もはっきりしているのだけど、それ以上のこととなると今まであまりよく知らなかったような気もします。
せいぜい、一休さんに大人げないとんち合戦を挑んだりしているイメージかしら。
ちなみに南北朝統一を果たした際の北朝側の天皇(後小松天皇)の落胤とされるのが一休さんという説が一般的らしいので一休さんと義満公が対面してないとも言えないし、とんち勝負はなかったとも言い切れませんが。
若干11歳で三代目の将軍職を継ぎ、管領の細川頼之の補佐により幕政を強化していった足利義満。一時は権力が強くなりすぎた細川頼之が他の守護たちにより失脚の憂き目にあうものの、逆に力を増してきた美濃の土岐氏、山陰の山名氏らを追い落とし、西国の大内氏の反乱を討伐。各地の勢力バランスが崩れない程度に守護大名の力を削ぎ落とす采配がなんともお見事です。
かくして幕府の権力を強固にした義満はただ一人官位を上昇。将軍職を嫡男義持(よしもち)にゆずったのち、従一位太政大臣にまで上り詰めました。将軍で太政大臣だなんて、頼朝も清盛もなし得なかったこと。
金ぴかの北山山荘にて政治を行い続けました。
ただしあんまりに上り詰めちゃうと、完璧すぎて武将としてはあんまり魅力を感じないのも実際のところです。
少しは失敗したエピソードが残っていると嬉しいのだけど…。
振り返ってみると、あえて将軍や高い官位を望まずNo.2の地位を150年保ち続けた北条氏が愛おしくさえ思えたりします。
しかし、足利義満没後の足利政権は大きく揺らぎはじめます。
4代将軍となった足利義持は父・義満とは不仲だったせいで父の政治をことごとく否定。勘合貿易を取りやめたり北山山荘を取り壊したり、おまけに鎌倉府を任せられた親戚の足利家との不和…。じょじょに室町幕府の屋台骨はゆらいでゆくことになります。
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「ニッポン武将名鑑」その15「足利尊氏」
- 2016/06/11
- 14:22
毎日小学生新聞(2016年6月3日掲載)
「ニッポン武将名鑑」その15は足利尊氏です。
ご存じ室町幕府創立の立役者、足利将軍家の初代です。
優しくて、ひょうきんもの。なおかつ気前のよい性格から、各地の武将から幅広く人気を得ました。
ただし気前のよさも度を超していて、後先考えずに恩賞をほいほいあげてしまったり、尊氏あてに届いた贈り物も他の人に惜しげもなく分けてしまったりしたそうです。
いくさにはめっぽう強い一方、逆に大きく負けるいくさも多々繰り返していて京都から九州まで落ち延びたり、カウンターで九州から再び攻め上って京都を占領したり、とってもドタバタした移動の連続。
しかも代々仕えた鎌倉幕府の北条氏を裏切り、戦い、ともに幕府を倒した後醍醐天皇や楠木正成、新田義貞とも戦い、あげくは一族の中で内紛が勃発すると弟の足利直義や、実子の足利直冬とも戦うといういくさにまみれた生涯でした。
いくさの最中においてもいつも、「例の笑み」を浮かべていたという文献があるそうで、その謎のふしぎな笑みにまわりの武将たちや家臣たちは何か尊氏に惹かれるものがあったのかもしれません。
裏を返すと誰にでも優しい尊氏は誰にでもいい顔をする無節操な人であり、律儀でまじめな弟で、幕府では政務を担当していた足利直義との衝突の原因はまさにそこにありました。
本人の自覚とは別にその優柔不断さが周囲をいくさに巻き込んでゆき、周囲に担がれて出馬したいくさには勝ってしまうという結果からきっと尊氏は終始、臨まぬいくさに自分だけが生き残ってゆくことへの苦悩を背負っていたに違いありません。
敵対しているさなかに亡くなった後醍醐天皇を崩御を聞き、菩提を弔うために天龍寺を建立したエピソードも実に尊氏らしいなあと思います。
きっと尊氏はだれとも戦いたくなかったんじゃなかったのかな。
自分の意思とは逆にのぼりつめてゆく境遇は、きっと孤独だったと思います。
が、尊氏によって京都の政権はかくも誕生し、日本には全国を巻き込んだ長い長い争乱の季節がやってきます。

ご存じ室町幕府創立の立役者、足利将軍家の初代です。
優しくて、ひょうきんもの。なおかつ気前のよい性格から、各地の武将から幅広く人気を得ました。
ただし気前のよさも度を超していて、後先考えずに恩賞をほいほいあげてしまったり、尊氏あてに届いた贈り物も他の人に惜しげもなく分けてしまったりしたそうです。
いくさにはめっぽう強い一方、逆に大きく負けるいくさも多々繰り返していて京都から九州まで落ち延びたり、カウンターで九州から再び攻め上って京都を占領したり、とってもドタバタした移動の連続。
しかも代々仕えた鎌倉幕府の北条氏を裏切り、戦い、ともに幕府を倒した後醍醐天皇や楠木正成、新田義貞とも戦い、あげくは一族の中で内紛が勃発すると弟の足利直義や、実子の足利直冬とも戦うといういくさにまみれた生涯でした。
いくさの最中においてもいつも、「例の笑み」を浮かべていたという文献があるそうで、その謎のふしぎな笑みにまわりの武将たちや家臣たちは何か尊氏に惹かれるものがあったのかもしれません。
裏を返すと誰にでも優しい尊氏は誰にでもいい顔をする無節操な人であり、律儀でまじめな弟で、幕府では政務を担当していた足利直義との衝突の原因はまさにそこにありました。
本人の自覚とは別にその優柔不断さが周囲をいくさに巻き込んでゆき、周囲に担がれて出馬したいくさには勝ってしまうという結果からきっと尊氏は終始、臨まぬいくさに自分だけが生き残ってゆくことへの苦悩を背負っていたに違いありません。
敵対しているさなかに亡くなった後醍醐天皇を崩御を聞き、菩提を弔うために天龍寺を建立したエピソードも実に尊氏らしいなあと思います。
きっと尊氏はだれとも戦いたくなかったんじゃなかったのかな。
自分の意思とは逆にのぼりつめてゆく境遇は、きっと孤独だったと思います。
が、尊氏によって京都の政権はかくも誕生し、日本には全国を巻き込んだ長い長い争乱の季節がやってきます。