土屋氏についてあれこれ
- 2017/06/18
- 21:08

わたしの実家がある長野県東信地方には土屋姓が多くて、恐らくかつての武田家に仕えた土屋氏にゆかりがあるんだろうなあ、と思って調べてみると土屋氏の元祖は桓武平氏で、相模国土屋荘(現在の神奈川県平塚市)を治めたことから土屋氏を名乗ったのが始まりなのだそう。
早くから源頼朝に従い、幕府を創成した功労者の1人が土屋氏なのです。
室町期に土屋領を追われた土屋氏は甲斐武田家に仕え、滅亡のときまで武田家を支えました。
長篠設楽が原の戦いで織田徳川軍の鉄砲戦術に、立ち向かい馬防柵に散った土屋昌続(昌次)は武田二十四将にも選ばれているスーパースター。信州に土屋姓が多いのは武田軍が信濃に侵攻した際、土屋昌続が東信地区を担当したことに由来しているのかなあ、なんて想像が膨らみます。
武田家滅亡時まで最後まで従い、逃げる勝頼公を守りながら討ち死にした土屋惣蔵も涙を誘います。
彼の死後、土屋氏は甲斐を占領した徳川家に服属しました。
土屋惣蔵の子は阿茶局(昨年の大河では斉藤由貴さんが演じられてました。)に養育され、上総久留里藩のお殿様になりました。土屋家の旧臣たちは井伊家に召し抱えられたといいます。
昨年、今年の大河ドラマにも土屋氏は絡んでるんだなあ。
で、なんで土屋氏のこと思い、長々と書いたかといえば、本日放送していたEテレの「ふるカフェ系 ハルさんの休日」で採り上げられていたのが城下町・土浦だったから。
(暗渠先生の高山英男さんがお堀跡の暗渠を紹介されておりました!)
常陸土浦城を治めていたのがその後の土屋氏であったのです。
久留里を治めていた本家は改易の憂き目にあいましたが、その分家は土浦藩主になり明治まで治めました。
今年の大河ドラマ、井伊家は戦国期のサバイバルを生き抜いて、徳川家の家臣筆頭に成り上がったけれど、土屋氏の顛末も十分にサバイバル。江戸期の大名、また小名がいかにその地位を勝ち取ったかを長いスパンで見るのもおもろいなあ、と思います。
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- 2017/06/10
- 11:05
久我山のいい(?)坂の話。
- 2017/06/10
- 08:33

西荻で配布しているフリーペーパー「西荻丼」の中で坂道のコラムを書いています。
名がある坂、ない坂に限らず風情のある風景をさがして、自転車で西荻界隈をうろうろしています。
桜の咲いている頃、久しぶり久我山稲荷神社の辺りまで行ってきました。そのとき神社の脇を下る坂道がすてきで思わず写真を撮ったのです。
坂好きのタモリさん曰く「よい坂の条件とは、1、勾配が急である。2、湾曲している。3、まわりに江戸の風情がある。4、名前にいわれがある」
の通り、ほぼ条件に沿った坂道だけど、この坂道にも名前が付いていたらいいのになあ、などと思っていたのですが、
杉並郷土史業書「杉並の伝説と方言」(森泰樹著)をペラペラとめくっていたところ、
例の坂道には「元坊(もとぼう)坂」という名がついていたことが分かりました。
坂の西側に光明寺というお寺さんがあったことがその由縁で、そのお寺さんが消滅したのには訳があったのでした。
江戸中期。坂上にあったのは九竜山光明寺というお寺でした。
その住職となったお坊さんはたいへんな生臭坊主だそうで檀家の美しい後家さんに手をつけるというスキャンダルを起こしました。
スキャンダル発覚後、久我山村の若衆が激怒。くだんの生臭住職を気絶するまで袋だたきにし、気を失った住職を死んだと勘違いした若衆たちは神田川に投げ込んで帰る、という荒っぽくて、なんとも雑な事件が起こったのです。
しかし、若衆が死んだと思っていた住職は川の水の冷たさで息を吹き返したのです。おそるべき生命力。生臭住職はことの次第を代官所に訴え出ると、たちまち村の若衆は捕らえられてしまいました。取り調べの末、原告の住職にも非があるということで、住職は追放、お寺はとり潰しとなりました。しかし住職を袋だたきにした若衆6人(←え!6人も!?)もまた終身刑を言い渡されて獄中で亡くなったとのことです。
そんな訳で、お寺はとり潰され、「元坊坂」の名がついたとのこと。なんとも後味のわるいエピソードに満ちた坂だったのですね…。
ところが、そのトンデモ昔話には真相があり、実はとなり村の大宮前新田に住む男がその当時、自らの林の立木を担保に光明寺から借金をしたのだそう。
しかし返済期日が過ぎてもお金を返さなかったので、光明寺住職が返済を迫り「担保に入れた立木を切るぞ」と催促にいったところ、住職と、大宮前新田の男が口論になり何故か久我山村の男たちも加わり住職に暴行を加えるという事態に。
男たちは住職が死んだと思い、神社の山に遺棄したのですが、息を吹き返した住職の訴えにより事件が明るみに出た。
というのが事の真相なんだそう。なので、光明寺騒動が「生臭坊主のスキャンダル」というのは嘘で、単に隣村の与太者が起こした借金にまつわるお寺との暴力事件というのが本当のところなんだとか。大宮前新田の男と久我山村の男たちが住職に暴力をはたらいたというのは事実だそうで、そのショッキングさを和らげるために住職にも非があったかのような物語が作られたのでしょう。
あれ、ではどうしてお寺は無くなっちゃったの?というと、騒動とは無関係に、どんど焼きで出た火の粉がお寺に飛び火して全焼したから。なんだそうな。
うむー。古今問わず、伝える人によって事実はおもしろおかしくねじ曲げられるものなのですね。
「印象操作」ということばをしみじみと考えたのでした…。