豊島氏発祥の地について
- 2018/02/18
- 11:17
昨日は阿佐ヶ谷区民センターにて、杉並郷土史会へ。
伊藤一美先生の講義「豊島・宮城文書に見る南北朝前期の豊島氏」を聞いてきました。
南北朝時代、地方のいくさで発行された「着到状、軍忠状」から見る豊島一族の立場や、動向を解説してもらいました。
「着到状」とは武士たちが有事の際、「私たちこの日に駆けつけました!」というもので、「軍忠状」は「私、いくさ場ではこんな活躍しました!」と上司に報告する申告書類。いくさ場の上司からサインを貰って本人に返却されます。これが恩賞を貰うための重要な証拠になったそうです。
残されるいくつかの軍忠状から豊島氏がどの時代にどんないくさにどのポジションで参加して、誰から認められたのかということが分かりました。
さて、それとは別に改めて目から鱗だったのは、豊島氏発祥の北区豊島は古代「外島」と呼ばれていたという説があったという点。隅田川沿いの地形はよく見れば突き出した半島。半島の下側には石神井川が流れ込んでより「島」感を出しています。
豊島氏がいつからこの苗字を名乗ったかははっきりしていないようですが、平安後期、この土地を賜った秩父平氏(平武常)の子や孫、〈常家(つねいえ)、康家(やすいえ)〉らによって、「ソトシマ氏→豊島氏」になっていったのか〜。と、なんとなく地形と地名と武将の名がつながりました。
「豊島」という地名が豊島区や練馬区にはなく、北区にあるのは不思議ですが、そもそもここが外島(豊島)と呼ばれていたのなら納得です。古代律令時代の庁舎「豊島郡衙」があったのもこの地域(滝野川公園)です。
豊島氏はこの地域の水利権を押さえて発展していったのですね。
近隣には小具(尾久)氏、赤塚氏、志村氏、など豊島氏支流の一族がみんなそのまま地名として残っているのが面白いです。
伊藤一美先生の講義「豊島・宮城文書に見る南北朝前期の豊島氏」を聞いてきました。
南北朝時代、地方のいくさで発行された「着到状、軍忠状」から見る豊島一族の立場や、動向を解説してもらいました。
「着到状」とは武士たちが有事の際、「私たちこの日に駆けつけました!」というもので、「軍忠状」は「私、いくさ場ではこんな活躍しました!」と上司に報告する申告書類。いくさ場の上司からサインを貰って本人に返却されます。これが恩賞を貰うための重要な証拠になったそうです。
残されるいくつかの軍忠状から豊島氏がどの時代にどんないくさにどのポジションで参加して、誰から認められたのかということが分かりました。
さて、それとは別に改めて目から鱗だったのは、豊島氏発祥の北区豊島は古代「外島」と呼ばれていたという説があったという点。隅田川沿いの地形はよく見れば突き出した半島。半島の下側には石神井川が流れ込んでより「島」感を出しています。
豊島氏がいつからこの苗字を名乗ったかははっきりしていないようですが、平安後期、この土地を賜った秩父平氏(平武常)の子や孫、〈常家(つねいえ)、康家(やすいえ)〉らによって、「ソトシマ氏→豊島氏」になっていったのか〜。と、なんとなく地形と地名と武将の名がつながりました。
「豊島」という地名が豊島区や練馬区にはなく、北区にあるのは不思議ですが、そもそもここが外島(豊島)と呼ばれていたのなら納得です。古代律令時代の庁舎「豊島郡衙」があったのもこの地域(滝野川公園)です。
豊島氏はこの地域の水利権を押さえて発展していったのですね。
近隣には小具(尾久)氏、赤塚氏、志村氏、など豊島氏支流の一族がみんなそのまま地名として残っているのが面白いです。

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凌雲閣(浅草十二階)のこと。
- 2018/02/13
- 00:11