上田宗箇(重安)見参!
- 2020/05/31
- 23:22

昨日5月30日は武人・茶人・造園家の上田宗箇(重安)が亡くなった日。
〈旧暦・慶安3(1650)年5月1日〉利休や織部の身近で学びつつ、数多のいくさ場で活躍した武将でもあります。
重安は尾張の出身で、祖父の代から織田家家臣の丹羽長秀に仕えました。
長秀は、信長三男・織田信孝に従軍し四国攻めの準備を進めている際に本能寺の辺が勃発。四国攻めは中止となり遠征軍が混乱する中、信孝は長秀と謀り、味方であり織田家一門衆の津田信澄(信長の甥)を攻めたて殺害に追い込みました。その際、信澄の首級をあげたのが若き重安だったのです。
明智光秀の娘を娶っていたからという理由だけで殺されてしまう信澄もかわいそうですが、重安が武人として常に前線に立っていたのかが伺えます。
丹羽長秀死後、重安は豊臣家の直臣となり、秀吉死後は関ヶ原の戦いにおいては旧主の丹羽長重とともに西軍に与しました。
終戦後は西軍に加担した罪で領地を没収され、剃髪。
その後、蜂須賀家に客将として迎えられ、阿波徳島に在住。その際は徳島城内の庭園を作庭。
その後の重安は縁戚の浅野家に仕え当時の浅野家の居城である和歌山城内の庭園、移封先の広島城内の庭園、尾張徳川家の居城名古屋城内の庭園作りにも関わりました。
大坂の陣では浅野家に従い樫井の戦いに参戦し、敵将、塙団右衛門 の首級をあげる槍ばたらき!
当時宗箇53歳。なんとも衰え知らず…!
その武勇は称賛され、幕府から出仕を求められるも固辞し浅野家にとどまり、慶安3(1650)年、88歳の生涯を終えました。
信長政権の終盤から徳川家光の時代まで生きた上田宗箇。なんとも長寿!
山田芳裕先生の「へうげもの」でも物語の最後を締めくくったのは宗箇さんでしたね。
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今川範政ってどんな人?
- 2020/05/30
- 23:44

今週、5月27日は、
旧暦で駿河の守護大名「今川範政(のりまさ)」が亡くなった日〈永享5(1433)年5月27日〉
ということで、はてな。今川範政ってどんな人だったっけ?と思い、
今川家の家系図を紐解きながらチェックしてみました。
そもそも今川家とは足利一門の吉良家の家系で、
吉良長氏の次男国氏が父の隠居地である三河国幡豆郡の今川荘を治めたことから始まりまりました。
足利一門でも別格の地位を許されていたそうです。
範政は、初代国氏から数えて六代目の今川家当主で、駿河の守護大名をつとめました。
文武に秀で、鎌倉府で起きた反乱「上杉禅秀の乱」の鎮圧の軍功により副将軍に任じられるほどに幕府からの信頼が厚かった範政ですがその晩年、家督相続で揉めるてミソをつけることに。
範政は晩年にできた子、千代秋丸(範頼)を可愛がり、何とか家督を継がせようと画策した結果、
嫡男の範忠との間に熾烈な相続争いを生むことになったのです。
結果としては幕府の6代将軍足利義教の裁定で範忠が相続し、範政は失意の中で亡くなったと言います。
争いに敗れた千代秋丸(範頼)は駿府の郊外、小鹿領を治めたことから小鹿姓を称しました。
時代は移り、範政のひ孫・今川義忠が遠江で戦死すると、再び当主の座をめぐり争いが勃発。
義忠の嫡子龍王丸は4つと幼少だったことから、今川家中では龍王丸派と、小鹿範頼の子・範満の支持派に別れたのです。
龍王丸の母・北川殿は幕臣の伊勢氏出身だったことから北川殿の弟であり龍王丸のおじにあたる伊勢盛時(のちの宗瑞=北条早雲)が幕府から派遣され、両者を仲介。
龍王丸が成人するまでの間を範満が家督を代行するという決着がつきました。
しかし時が経っても範満は家督を龍王丸に返還しようとしなかったため、北川殿は幕府に助けを要請。
伊勢盛時は再び駿河に下向し範満の館を襲撃し、範満を自害に追い込みました。
こうして龍王丸は無事今川家の家督を継ぐことができたのです。
龍王丸は元服し氏親と名を改めました。
氏親はおじ伊勢盛時の力を借りつつ、次第に能力を発揮し戦国大名への道を駆け上ります。
長らくその領土を明け渡していた遠江の地を実力で斯波氏から奪い取り、一方では甲斐へ侵攻し武田氏の領土をも脅かしました。
また独自の分国法「今川仮名目録」を制定。子の氏輝、義元へとバトンを渡すことになるのです。
その後の義元の活躍はご存知の通りですが、「龍王丸VS範満」の争いのそもそもの原因が範政の家督相続のこじらせにあったとは驚きでした。
しかし龍王丸事件がなければ、伊勢盛時が駿河に下向する事もなかっただろうし、その後の後北条氏による関東制覇もなかったかもしれません。
今川家は桶狭間の戦い以降、氏真の代に没落。流浪の時期もありましたが、江戸時代に入り、氏真の孫の直房の代には武蔵多摩郡井草村などに500石の領地を得て、もともとの領地と合わせて1000石の旗本として幕末まで家名を保ちました。
私、さくらいが住んでいるエリアの一帯はそれこそ江戸期は今川氏のご領地だったので、「杉並区今川」という地名をはじめ史跡なども残っています。そんな訳で氏真公以降の近世今川家のことはわりと身近だったのですが、氏親公以前については今一つピンとこなかったので、家系図で紐解く武家の歴史、書きながらとっても勉強になりました。今後もこのシリーズ、ちょいちょいとやってみようかな、と思っているしだいです。
松平光通公と国姫さまについて
- 2020/05/01
- 19:21

このところ、今日は何の日?
というテーマでその日に生まれた、もしくは亡くなった武将や大名などを取り上げてイラストをTwitterにアップしています。
こちらでは数日遅くなりましたが、4月29日について。
4月29日は、4代越前福居藩主・松平光通(みつみち)公が自害した日。(延宝2(1674)年)
叔父である越前宰相こと松平忠直が乱行の咎で豊後へ配流されると、忠直の弟の忠昌が越前50万石を引き継ぎ、忠昌の死後、子の光通が10歳にして後継者となりました。
藩政では法制を整備、文化芸術にも力を入れた光通公でしたが、正室の国姫が後継を産めなかったことを悩んだ末に自害。その直後、光通にとっては一人息子の権蔵(のちの松平直堅)が親族の妨害にあい出奔。様々な問題に苦しみながら光通は延宝2(1674)年3月24日(新暦に改めると4月29日)、39歳の若さで自害しました。
越前松平家は、忠直卿の配流以降、嫡子の仙千代(のちの松平光長)は福居藩の後継から外され、忠昌と入れ替わるように越後高田藩主に治りましたが、その後継者を巡って御家騒動(越後騒動)が勃発。そののち改易。
また本家の福居藩でも光通の後継は遺書により、彼の弟である松平昌親が5代目を相続しましたが、その相続をめぐって藩政が混乱。6代目を継いだ綱昌(光通、昌親にとっては甥)が発狂を理由に強制隠居を余儀なくされる事件も。
7代目には前藩主の昌親が名を吉品(よしのり)と変え、領地を大幅に削減されるというペナルティを受け入れ再び藩主に就任しました。福居が福井という地名に名を改めたのはこの頃だったそうです。
光通の庶子である権蔵(松平直堅)に妨害を働いたのは松平光長の母、高田の御方。2代将軍徳川秀忠公の娘〈勝姫〉。大河ドラマ「葵・徳川三代」では悲劇のヒロイン的な描かれ方で月見恭子さんが演じられておりましたが、その数十年後、身内の後継問題に介入し自身の孫とその夫を死なせてしまうという原因になるとはやるせないものがありますね。

と、ここまで文章で越前松平家のお家騒動について簡単にまとめましたが、
文章だけだとわかりづらいので簡単な家系図にまとめてみました。
徳川家康の次男、結城秀康が越前松平家の創設者ですが、長男の忠直、次男の忠昌、そして秀康にとって孫にあたる光通、昌親、そしてひ孫にあたる綱昌、そして再び昌親が吉品(よしのり)と名を変え七代目を再継承するまでの図です。
それにしても越前松平家ってドラマチック。
そして越前松平家はたくさんの大名家を輩出しました。
本家の越前福井藩をはじめ、
秀康三男の直政の系統の出雲松江藩、
五男直基の系統の播磨姫路藩(から引越しに引越しを重ね武蔵川越藩。最終的に上野前橋藩)。
六男直良の系統は播磨明石藩の領主へ。
越前福井を継げなかった松平光長は越後騒動の責任を負い処罰を受けたのち、
許され、一族から養子を迎え美作津山藩を立藩。
光通の子、直堅は出奔後、福居藩の後継者争いの当事者としてしばらく渦中にいることになりますが、
その後独立し孫の代に越後糸魚川藩の領主になりました。
最後に映像で観られる越前松平家について知っている限りの覚書き。
忠直の乱行と勝姫と幼き仙千代(のちの光長)の苦悩は大河ドラマ「葵徳川三代」にて。
忠直らの弟、直基の子直矩は度重なる国替えで引越し大名の異名を取りました。こちらは映画 「引越し大名」 のモデルになっていますね。
さらにその弟、直良の系統、播磨明石藩へ。八代目の藩主松平斉韶(なりつぐ)は映画「十三人の刺客」に狂気のお殿様役で出てきます。(物語の中において斉韶が将軍の弟になっている設定などは史実とは異なっているため、完全なフィクションですが、斉韶の次代のお殿様、松平斉宣(なりこと)は当時の将軍徳川家斉公の子から養子として明石藩主に入りました。その際に起きたトラブルの逸話がモデルになっている模様。)
そもそも徳川将軍家を継いだ徳川秀忠は家康にとっては三男。
長男の信康は早世しましたが、次男の秀康の家系こそ将軍になっていたかもしれません。越前松平家を継いだ忠直公の不行状によるその後の顛末や、その子の光長の生涯、そして光通公の苦悩はそもそも越前松平家自体が家康公の後を継げなかったことに端を発しているというのも言い過ぎではないような気もします。
今回は越前松平家の複雑なお家の状況から、松平光通公の人生をのぞいてみました。光通公そして国姫さま、どうぞ安らかに!