「いくさ」と「上野」と「マルモ」考。
- 2020/08/16
- 03:25

上野・ アメ横の丸茂商店さんのホームページのトップ画像が更新されました。
丸茂商店の担当さんからは「アメ横というよりは上野全体の歴史をテーマにイラストを」というご依頼をいただいたので、やはりここは戊辰のいくさの際、「上野に立て籠もって戦った彰義隊と、それに対峙した新政府軍」の図を織り込まねばという意図で描きました。
そもそも上野戦争に至る経緯は…。
慶応4(1868)年、1月、鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍・徳川慶喜は、大坂城を脱出し江戸へ退却。
江戸へ戻った慶喜は2月12日、上野寛永寺に謹慎。
3月13日、14日、旧幕臣・勝海舟と東征大総督参謀・西郷隆盛が会見し江戸城の無血開城が決定しました。
この間、慶喜の出身、一橋家にゆかりのある者たちが中心となり「彰義隊」が結成されると、たちまち隊員が膨れ上がり千名を越えるほどになったと言います。
4月11日、江戸城が官軍に明け渡されると慶喜は寛永寺を出立し水戸へ移動し、引き続き謹慎。隊士たち慶喜が江戸を出るあたりまで護衛を行いましたが隊そのものは上野に留め置かれました。
その後勝海舟から隊の解散を促されるも、ますます隊士は増え続け3000人以上にもなったとか。新政府軍への敵対姿勢が増す中、新政府は東征大総督の新たな指揮者として大村益次郎を派遣。
新政府軍の宣戦布告をもって上野戦争が始まっていったのです。
5月15日、上野の山にこもった彰義隊を新政府軍が三方向からぐるりと包囲。
午前7時、雨天の中、新政府軍が上野広小路方面から忍川にかかる三橋に放った砲撃を合図に戦闘開始。
寛永寺の正面、黒門内に退却した彰義隊と薩摩兵を中心とした新政府軍で激しい戦闘が繰り広げられる中、
谷中門口からは団子坂から長州兵を中心とした新政府軍が、おりからの大雨で増水する藍染川(谷田川)を乗り越え三崎坂を突破。
その一方、本郷台の加賀藩屋敷に構えた佐賀兵が放ったアームストロング砲が上野の山に着弾。寛永寺の中堂などを破壊しました。
ここに至り彰義隊の士気は大いに乱れ、根岸方面に逃走。黒門口を突破した新政府軍は彰義隊本営を陥落せしめ、彰義隊は各地へ散ってゆくことになります。
江戸城内ではアームストロング砲の着弾を確認した大村益次郎が懐中時計をちらりと見て「まもなく終わります。」と予言。その通り、午後5時には戦いは終結。彰義隊士は200名を超える死者を出した一方、新政府軍の死者は30名ほどだったそうです。
激戦地である黒門口の指揮を取ったのは西郷隆盛。
その際、好物のうなぎを食べていたかは定かではありませんが(ある訳ない)、いくさの直前もしくは終結後に食べていた…かも…しれません。
もう一つ。「丸茂商店」と直接の関わりはないのですが、読みが同音の「マルモ」さんという人物が彰義隊士として上野戦争に参加していていたことを付け加えておきます。
その名は丸毛靭負(ゆきえ)。本名は丸毛利恒(としつね)と言います。
江戸生まれの幕臣だった靭負は剣術や槍術、馬術に更に砲術も秀で、第二次長州征伐に参加したのちに徳川慶喜付きの護衛を担当。鳥羽伏見の敗戦後は彰義隊に参加し、上野戦争では伝令役として活躍したそうです。
上野戦争以後は蝦夷へ渡り、箱館戦争にも参加。
旧幕府軍が降伏すると謹慎期間を経て明治政府に参加。のちに横浜毎日新聞の記者などもつとめ、明治38年(1905年)まで生きました。享年55。
武人として、また役人、文化人として様々な顔を持った丸毛靭負。死場所を求めて戦っていたという印象の強い彰義隊の中で、丸毛靭負という人はことさらに生きようとする力が強かったのかもしれません。
昭和20年、満洲大連からの引き揚げののち焼け跡の上野からスタートした丸茂商店はこの上野アメ横の地で75年目を迎えます。まさに生きる力の強さ!「いくさ」「上野」「マルモ」の共通点でふしぎな縁もあるものだなあ、ということで丸毛靭負さんをイラストに加えさせてもらいました。
ここまで書かないと、分かりづらいトップ画像のイラストではありますが、上野の山を舞台にして大きないくさが行われていたという事実が、失われた川「忍川」や「藍染川」(ともに現在は暗渠化)を通してリアルに見えてくるのも興味深いところです。要塞としての上野を攻略する気持ちで上野公園を散策、というのも面白いと思います!ぜひ上野へ~!
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