伊達輝宗の最期。
- 2020/11/29
- 22:44
本日、11月29日【天正13年10月8日】は伊達輝宗と二本松義継のご命日。
思い出すのは大河ドラマ「独眼竜政宗」のいちシーン。
家督を嫡男政宗に譲り隠居した伊達輝宗は、未熟ながら鋭い政宗青年の手腕を暖かく見守ります。
しかし、政宗の対外政策は苛烈を極め、小浜城主・大内定綱を攻めるとその後、定綱の姻戚にあたる二本松城主・二本松(畠山)義継も攻撃。
義継は降伏を申し出るものの、わずかな所領を残しその殆どを没収。
輝宗のとりなしで仕置きはやや緩和されたものの、義継の面目は立ち行かない状態に追い込まれました。
そして事件は起こります。
天正13年(1585年)10月8日、輝宗の元に参じて礼をのべた義継は一瞬の隙をついてなんと輝宗を拉致。
二本松領との境の高田原にて殺害されたとも、後から追いついた政宗一行の銃撃により義継もろとも撃たれて死んだとも言われています。享年42。
大河ドラマの中では、捕らえられた父を目の前にどうすることもできず狼狽る政宗(演:渡辺謙)に対し、
「棟梁はそなたぞ、わしごと射て!」とけしかけ、政宗は涙ながらに義継一行に銃撃を仕掛ける演出でした。
輝宗を拘束していた義継自身も銃弾に倒れ、34年の生涯を終えました。
ドラマの中では輝宗を北大路欣也さん、二本松義継を石田太郎さんが貫禄たっぷりに演じておられましたが、こんなに若い年代設定だったのですね。
こののち、若き当主政宗は佐竹軍&南奥州勢と死闘を繰り広げることになるのですが、
時世はすでに秀吉の世になりつつあり、政宗の勢いは奥州の覇権を握るまでで留まることになります。

思い出すのは大河ドラマ「独眼竜政宗」のいちシーン。
家督を嫡男政宗に譲り隠居した伊達輝宗は、未熟ながら鋭い政宗青年の手腕を暖かく見守ります。
しかし、政宗の対外政策は苛烈を極め、小浜城主・大内定綱を攻めるとその後、定綱の姻戚にあたる二本松城主・二本松(畠山)義継も攻撃。
義継は降伏を申し出るものの、わずかな所領を残しその殆どを没収。
輝宗のとりなしで仕置きはやや緩和されたものの、義継の面目は立ち行かない状態に追い込まれました。
そして事件は起こります。
天正13年(1585年)10月8日、輝宗の元に参じて礼をのべた義継は一瞬の隙をついてなんと輝宗を拉致。
二本松領との境の高田原にて殺害されたとも、後から追いついた政宗一行の銃撃により義継もろとも撃たれて死んだとも言われています。享年42。
大河ドラマの中では、捕らえられた父を目の前にどうすることもできず狼狽る政宗(演:渡辺謙)に対し、
「棟梁はそなたぞ、わしごと射て!」とけしかけ、政宗は涙ながらに義継一行に銃撃を仕掛ける演出でした。
輝宗を拘束していた義継自身も銃弾に倒れ、34年の生涯を終えました。
ドラマの中では輝宗を北大路欣也さん、二本松義継を石田太郎さんが貫禄たっぷりに演じておられましたが、こんなに若い年代設定だったのですね。
こののち、若き当主政宗は佐竹軍&南奥州勢と死闘を繰り広げることになるのですが、
時世はすでに秀吉の世になりつつあり、政宗の勢いは奥州の覇権を握るまでで留まることになります。

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江戸と道灌と銅像と。
- 2020/11/29
- 02:45
最も身近な場所にありつつなかなか寄れなかった場所へ。
行く先々で会ってしまう憎いヤツこと、
「またお前いるのかよ!」
でおなじみ、東京国際フォーラム内にある太田道灌像に会いに用事ついでに立ち寄りました。

かつては東京都庁があったこの地に都のシンボルとして昭和33年にこの場所に設置されていたそうな。
道灌公は江戸城の原型を作った武将として、風流な文化人として親しまれているけれど、東京の歴史として見たらもともとこの地を治めていた秩父平氏の流れをくむ江戸氏や豊島氏を追い出した侵略者でもある訳で…。
歴史的な活躍はさほど知らないけれど江戸氏の銅像って見てみたい気もしますし、
そういえばその後、江戸の地に入り大きく町を作り変えた徳川家康の像って江戸城周りにあるんだろうか。
思いつく家康像って、松平氏の本拠地である岡崎、家康が大きく出世を遂げた浜松、人質時代と晩年を過ごした駿府などに建っているイメージですが…、江戸には…、思い当たりません。
簡単に調べてみたところ、江戸東京博物館の敷地内に一点あるらしく、平成6年に家康公を顕彰し建てられたとのこと。平成6年って、めっちゃ最近…。
(江戸東京博物館のサイトに記載されている記事を確認したところ
「戦前、東京市役所前に徳川家康像があったらしいのですが、昭和18年太平洋戦争のために供出され、戻らなかった」とあります。)
江戸氏は正直なところどう活躍しているのかどうかもよく分からないし、江戸から追い出されちゃっているし、
家康となると活躍はご存知の通りだけど時代が近くて生々しい(畏れ多い)感じがするのか、
もしくはその後の江戸城の主にとって朝敵にあたる徳川家の象徴を、都民にとっては銅像を作らせない雰囲気として残っているのでしょうか。
そんな中では道灌は銅像としては作るのにちょうどいいロマンの要素に満たされているのかもしれませんね。
行く先々で会ってしまう憎いヤツこと、
「またお前いるのかよ!」
でおなじみ、東京国際フォーラム内にある太田道灌像に会いに用事ついでに立ち寄りました。

かつては東京都庁があったこの地に都のシンボルとして昭和33年にこの場所に設置されていたそうな。
道灌公は江戸城の原型を作った武将として、風流な文化人として親しまれているけれど、東京の歴史として見たらもともとこの地を治めていた秩父平氏の流れをくむ江戸氏や豊島氏を追い出した侵略者でもある訳で…。
歴史的な活躍はさほど知らないけれど江戸氏の銅像って見てみたい気もしますし、
そういえばその後、江戸の地に入り大きく町を作り変えた徳川家康の像って江戸城周りにあるんだろうか。
思いつく家康像って、松平氏の本拠地である岡崎、家康が大きく出世を遂げた浜松、人質時代と晩年を過ごした駿府などに建っているイメージですが…、江戸には…、思い当たりません。
簡単に調べてみたところ、江戸東京博物館の敷地内に一点あるらしく、平成6年に家康公を顕彰し建てられたとのこと。平成6年って、めっちゃ最近…。
(江戸東京博物館のサイトに記載されている記事を確認したところ
「戦前、東京市役所前に徳川家康像があったらしいのですが、昭和18年太平洋戦争のために供出され、戻らなかった」とあります。)
江戸氏は正直なところどう活躍しているのかどうかもよく分からないし、江戸から追い出されちゃっているし、
家康となると活躍はご存知の通りだけど時代が近くて生々しい(畏れ多い)感じがするのか、
もしくはその後の江戸城の主にとって朝敵にあたる徳川家の象徴を、都民にとっては銅像を作らせない雰囲気として残っているのでしょうか。
そんな中では道灌は銅像としては作るのにちょうどいいロマンの要素に満たされているのかもしれませんね。