松平容保公について
- 2020/12/06
- 16:20
昨日は松平容保公のご命日。【明治26(1893)年12月5日】
天保6(1835)年、江戸高須藩邸で生まれた容保は12歳で会津松平家の養子になり、
18歳で家督を相続、28歳で京都守護職に就任。その後、幕末の動乱の最前線に立ち続けました。
家康公を祖とする同族とはいえ、容保が生まれた高須松平家は尾張家の支藩的な立場ですし、容保の実父である松平義建(よしたつ)の祖父は水戸藩主・徳川治保(はるもり)です。つまり容保のひいお爺さまは水戸徳川家のお殿様。
しかし、この会津松平家を継承するということは他の誰よりその家の家風を守らねばなりません。
初代会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)公の教えには「いかなることがあっても将軍家をお守りせよ」の家訓があります。
容保は養父・松平容敬(かたたか)よりその教えを叩き込まれました。
容敬(かたたか)もまた出身は水戸徳川家であり、養子の容保とはおじ、おいの関係にあたります。
皮肉なことに京都守護職に就任したことで、京都での治安維持を担うことになり、
それが原因で会津藩は長州を主とする新政府軍からの恨みを一手に引き受けることになります。
鳥羽伏見の戦いの直前、将軍・徳川慶喜は容保らわずかな供回りと大坂城を脱出。江戸城へ逃げ帰り、謹慎。
何よりも徳川主家への忠誠を示してきた容保にとって、
徳川家の、ひいては武家の棟梁にあるまじき慶喜の行為には肩を落としたに違いありません。
会津・桑名藩が朝敵とされる勅命が下ると、容保は江戸にもいられなくなり江戸詰めの藩士とともに会津へ帰還。
そのおよそ半年後、会津は戦火に晒され、多くの犠牲者を出す悲劇に至ったのはご存知の通り。
会津藩降伏後、会津松平家は会津領を没収。
諸藩に預け置かれる身を転々とし、明治5年にようやく蟄居を許されました。
その後、明治13(1880)年、大権現・徳川家康公が祀られる日光東照宮の宮司や、上野東照宮の祠官に就任。
会津藩祖保科正之公が祀られる土津神社の祠官も兼務しています。
その生涯を徳川家のために尽くしていたんですね。
明治26(1893)年12月5日、容保公は東京小石川にて、59歳の生涯を終えました。
容保公が生まれた高須松平家からは他にも名だたる家に養子に入った兄弟がたくさん。
その中でも、
尾張徳川家に養子に入った徳川慶勝、
一橋徳川家に養子に入った徳川茂栄、
会津松平家に入った松平容保、
桑名松平家に養子に入った松平定敬ら四名は「高須四兄弟」と呼ばれています。
彼ら兄弟から見つめた幕末の物語、いつか紡いでいけたらいいなあ、と思います。

天保6(1835)年、江戸高須藩邸で生まれた容保は12歳で会津松平家の養子になり、
18歳で家督を相続、28歳で京都守護職に就任。その後、幕末の動乱の最前線に立ち続けました。
家康公を祖とする同族とはいえ、容保が生まれた高須松平家は尾張家の支藩的な立場ですし、容保の実父である松平義建(よしたつ)の祖父は水戸藩主・徳川治保(はるもり)です。つまり容保のひいお爺さまは水戸徳川家のお殿様。
しかし、この会津松平家を継承するということは他の誰よりその家の家風を守らねばなりません。
初代会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)公の教えには「いかなることがあっても将軍家をお守りせよ」の家訓があります。
容保は養父・松平容敬(かたたか)よりその教えを叩き込まれました。
容敬(かたたか)もまた出身は水戸徳川家であり、養子の容保とはおじ、おいの関係にあたります。
皮肉なことに京都守護職に就任したことで、京都での治安維持を担うことになり、
それが原因で会津藩は長州を主とする新政府軍からの恨みを一手に引き受けることになります。
鳥羽伏見の戦いの直前、将軍・徳川慶喜は容保らわずかな供回りと大坂城を脱出。江戸城へ逃げ帰り、謹慎。
何よりも徳川主家への忠誠を示してきた容保にとって、
徳川家の、ひいては武家の棟梁にあるまじき慶喜の行為には肩を落としたに違いありません。
会津・桑名藩が朝敵とされる勅命が下ると、容保は江戸にもいられなくなり江戸詰めの藩士とともに会津へ帰還。
そのおよそ半年後、会津は戦火に晒され、多くの犠牲者を出す悲劇に至ったのはご存知の通り。
会津藩降伏後、会津松平家は会津領を没収。
諸藩に預け置かれる身を転々とし、明治5年にようやく蟄居を許されました。
その後、明治13(1880)年、大権現・徳川家康公が祀られる日光東照宮の宮司や、上野東照宮の祠官に就任。
会津藩祖保科正之公が祀られる土津神社の祠官も兼務しています。
その生涯を徳川家のために尽くしていたんですね。
明治26(1893)年12月5日、容保公は東京小石川にて、59歳の生涯を終えました。
容保公が生まれた高須松平家からは他にも名だたる家に養子に入った兄弟がたくさん。
その中でも、
尾張徳川家に養子に入った徳川慶勝、
一橋徳川家に養子に入った徳川茂栄、
会津松平家に入った松平容保、
桑名松平家に養子に入った松平定敬ら四名は「高須四兄弟」と呼ばれています。
彼ら兄弟から見つめた幕末の物語、いつか紡いでいけたらいいなあ、と思います。

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