「有馬豊氏と東京セネタース」
- 2018/05/11
- 22:55

イラストは昨年の展示「西荻自由研究」で描いた西荻と武将シリーズのひとつです。
「有馬豊氏と東京セネタース」。一見甲冑姿の武将と、ユニフォーム姿の野球選手がどうつながっているのか謎の組み合わせですよね。
大正時代に西荻の北エリアに別邸として土地を取得したのが筑後久留米藩21万石藩主の末裔、有馬頼寧(ありまよりやす)。
彼は当時の井荻村村長、内田秀五郎の主導により進められた村の区画整理や、新駅「西荻窪駅」開設に対しても寄付を惜しみませんでした。
有馬頼寧は社会運動や政治家として活動する一方、スポーツに対しても熱心で、日本中央競馬の理事を務めたり、日本卓球協会を設立したり。
(氏の名を冠した中央競馬のG1レース「有馬記念」は暮れの風物詩になってますね。)
そして、1936年には上井草球場に本拠地を置いたプロ野球球団、東京セネタースのオーナーも務めました。「セネタース」の愛称は当時米国のメジャーリーグにあったワシントン・セネタースに発想をえたもの。オーナーの有馬が議員だったことから、上院議員を意味するセネター (Senator) が愛称に選ばれました。
セネタースは同じ在京チームである、東京巨人軍のライバル球団として誕生し、名選手も輩出しましたが、戦時下による改名と合併を繰り返し「翼軍」→「大洋軍」→「西鉄軍」と愛称を変更。1943年に解散しました。
短命に終った「セネタース」ですが、久留米藩主有馬氏末裔の有馬頼寧が井荻村に土地を購入しなかったら生まれなかった結びつきだったことは間違いありません。そもそも戦国武将、有馬豊氏が久留米のお殿様にならなかったら…。(以下略)
そんな訳で戦国武将の有馬豊氏(久留米藩祖)と、セネタースで活躍した苅田久徳内野手をイメージして描きました。
数年前にさいたま西武ライオンズが、復刻ユニフォームに「セネタース」を選んでくれたのはとってもうれしかったのよね。

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